旅と劇場とスタジアム   ~アーティスティックライフに憧れて~

旅、温泉、飲み歩き、音楽、ミュージカル、ラジオそしてサッカー・スポーツ観戦が大好きなサラリーマンによる雑文記。日々の想いをつづっていきます。

【サッカー】FIFAクラブワールドカップ2020 南米王者パウメイラスは決勝に進めず。欧州王者バイエルンとは戦えず。

FIFAクラブワールドカップ(以下クラブW杯と記す)2020が、カタールで、2月4日(木)から11日(木)の日程で行われている。

昨年12月に開催される予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期された。

 

今回、南米王者として出場するのは、ほんの1週間ほど前にコパ・リベルタドーレスを制したブラジルの名門、パウメイラス。

 

そんなパウメイラスの初戦が、2月7日(日)21:00(日本時間8日(月)早朝3:00)から、アル・ライヤーンのエデュケーションシティスタジアムで行われた。

 

アル・ライヤーンは首都ドーハのすぐ西側に位置し、このスタジアムは、2022年のFIFAワールドカップのために新設したようだ。

 

対戦相手は、北中米カリブ王者のティグレス(メキシコ)だ。準々決勝でアジア王者の蔚山(韓国)を破って勝ち進んできた。

 

クラブ世界一を決める大会は、長年、ヨーロッパ王者と南米王者の2チームによる対戦という形で行われていた。

古くはホームアンドアウェーによるインターコンチネンタルカップ。そして1980~2004年まではトヨタカップという名称で、中立地である東京 国立競技場を舞台に一発勝負で試合を行っていた。

そして、ヨーロッパ、南米だけでなく各大陸王者が参加する現在のクラブW杯の形になったのは2005年からだ。

 

現在のクラブW杯では、各大陸王者プラス開催国王者の計7チーム(今大会は、オセアニア王者が辞退したため6チーム)が参加しトーナメントで争われるのだが、インターコンチネンタルカップトヨタカップの経緯もあり、ヨーロッパと南米王者だけはシードされている。そのため、この2チームは準決勝から出場することになっている。

 

世界中のサッカーファンの大多数は、ヨーロッパと南米王者による決勝戦を見たいだろう。

しかし、2005年にクラブW杯が始まって以来、ヨーロッパと南米王者の対戦が見られなかったケースが4回ある。

大会史上ヨーロッパ王者はすべて決勝に進んでいるが、南米王者は過去4回初戦の準決勝で敗退し、決勝戦へ進めていない。

2010年のインテルナシオナウ(ブラジル)、2013年のアトレチコミネイロ(ブラジル)、2016年のアトレチコナシオナル(コロンビア)、そして2018年のリーベルプレート(アルゼンチン)である。

 

そのため、南米王者は、まずは初戦となる準決勝をクリアすることが最初の大きなミッションとなる。

そうすることによって初めて、ヨーロッパ王者と戦う権利を得ることができるからだ。

チーム関係者、サポーターは、何はともあれ準決勝をクリアすることを切に願うのである。

 

この試合は、そんなパウメイラスにとって、とても大事な試合だった。

しかし、結果、そして内容は、予想だにしない残酷なものになってしまった。

 

ティグレスは序盤から動きがよかった。

開始早々には、目の覚めるような決定的なシュートを打ち、パウメイラスを慌てさせるのに十分だった。

GKウェヴェルトンが見事にセーブし事なきを得たが、決まっていてもおかしくなかった。

 

その後、ティグレスのショートパス中心の攻撃が目立ってはいたが、パウメイラスもそれなりにカウンター中心の攻撃を行っていた。

 

しかし、そんな時間帯も長くは続かなかった。

 

ティグレスが完全にゲームを支配するようになった。

小気味よくショートパスを巧みにつなぎ、分厚い攻撃を披露していた。

 

それに対しパウメイラスは、カウンターにしか攻撃のオプションを見いだせない。

 

そんな中、後半8分、ティグレスの裏への抜け出しに、パウメイラスのDFがペナルティアーク内でファイルを犯し、ティグレスにPKが与えられた。

これを、10番でエース、元フランス代表のジニャックが決め、ティグレスに先制点が入った。

入るべくして入ったティグレスのゴールだった。

 

それにしても、ティグレスのパスサッカーは冴えていた。

何度も細かいパス回しでパウメイラスの守備陣を崩していた。

一対一でもパウメイラスの選手が簡単に交わされるシーンが見られたり、明らかにこの日のパウメイラスは、精彩を欠いていた。

 

パウメイラスで目立った選手は、何といってもGKウェヴェルトンだ。ウェヴェルトンがいなければ、あと2,3点入っていてもおかしくなかっただろう。

フィールドプレイヤーでは、かつてアルビレックス新潟でプレーしていたFWホニと、後半途中から入ったFWウィリアンぐらいだろうか。

ウィリアンは2012年のコリンチャンスがクラブW杯を制したときのメンバーだが、前線でいいタイミングでボールに絡んだりして攻撃のアクセントになっていた。しかしながら、決定的なチャンスは作れなかった。

 

パウメイラスの選手のコンディションは相当に悪いように思えた。

 

終盤、パウメイラスのポルトガル人監督フェヘイラは、テクニカルエリアで時折しゃがんで地面を見つめ、あきらめというか、もうやりようがないといった素振りを見せていた。

 

後半途中からレジェンド的存在の元ブラジル代表のMFフェリペ・メロを投入するが、存在感はなく、全く風格を表すことはできなかった。

期待のエース、FWルイス・アドリアーノもほとんど見どころはなかった。

 

反対に、ティグレスのエース、ジニャックは何度もチャンスを作り出しており、格の違いを見せつけていた。

 

結局、1-0でティグレスが勝利し、北中米カリブ王者として初の決勝進出を決めた。

 

全体を通して、ティグレスの方が何倍もクオリティの高いサッカーをしていた。

南米王者の誇りは見せられず、パウメイラスは全くいいところなく、敗退してしまった。

 

パウメレンシにとっては悪夢のような試合だったのではないだろうか。

 

世界一の称号をかけて、強行軍を押してカタールの地に来たが、世界一はおろか、ヨーロッパの強豪、バイエルンと戦うことする許されなかったのだから。

 

パウメイラスにとっては、あまりにもコンディションが悪すぎたのだろう。

1月30日(土)にサントスとリベルタドーレス決勝を戦い、2月3日(水)にはボタフォゴ相手にブラジル全国選手権を戦っている。

そして、13時間ほどかけて時差6時間のカタールへ移動し、2月7日(日)にクラブW杯のこの大事な試合を戦ったのだ。

コンディションを整える時間もなかったのだろう。

このスケジュールでは、パウメイラスの選手にとってあまりにも酷だったと思う。

 

かわいそうではあるが、結果は結果だ。事実を受け入れるしかない。

 

もう一つの準決勝は、一日遅れで行われたが、ヨーロッパ王者バイエルン(ドイツ)がアフリカ王者アルアハリ(エジプト)を2-0で破り、順当に決勝にコマを進めた。

 

勝戦に進めなかったパウメイラスは、アルアハリとの3位決定戦を戦うこととなる。

 

過去、4度決勝に進めなかった南米王者は、すべて3位決定戦には勝って、南米王者の意地を見せている。

 

3位決定戦は、決勝戦の前座のような形で、2月11日(木)18:00(日本時間12日(金)深夜0:00)から行われる。

 

世界一の称号を取り損なったパウメイラスにとっては、正直どうでもいい試合かもしれない。

しかし、世界は見ているのだ。

果たして立て直すことはできるのか。

南米王者として、どのように戦うのか、注目していきたい。

(2021年2月10日記)

 

 

 

【文学】沢木耕太郎 「バーボン・ストリート」 トウモロコシ畑からの贈物、バーボンを呑みたくなる珠玉のエッセイ集。

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沢木耕太郎の作品をひたすら読み続けている。

スポーツノンフィクションの傑作「王の闇」を読み終え、当初、次は「テロルの決算」、「危機の宰相」と読み続けようと思っていた。

しかし、「王の闇」の最後に収められた短編「王であれ、道化であれ」を読み終え、次は「バーボン・ストリート」にしようと思った。

というのも、「王であれ、道化であれ」の舞台は、アメリニューオーリンズニューオーリンズの街の中心地フレンチクォーターのメイン通りは、バーボン・ストリートである。そんなバーボン・ストリートで過ごしたことが何度となく出てくる。

ということで、「バーボン・ストリート」を本棚から取り、読むことにしたのだった。

 

例の如く、本に挟んだレシートからこの本は、2003年1月26日に購入していることがわかる。

その時にすべて読んだのか、途中までしか読んでいなかったかは定かでないが、それほど内容を覚えていないということは、初読に近いのだろう。

 

この本は、雑誌「小説新潮」の連載エッセイで、単行本としては1984年10月に刊行されている。

15篇のエッセイにより成る。

各エッセイは以下の通り。

 1.奇妙なワシ

「ワシ」という一人称の奇妙な使い方。特に、スポーツ新聞における相撲取りやプロ野球選手で多用されることについて。プロ野球選手の江夏豊、相撲取りの輪島、貴ノ花が出てくる。

 2.死んじまってうれしいぜ

オトギバナシ(女性にとってはシンデレラコンプレックス、男性にとってはハードボイルド)から始まり、ニューオーリンズのバーボン・ストリートで聴いたデキシーランド・ジャズの曲について。陽気な数曲の中でも、印象的な曲名「死んじまってうれしいぜ」は葬送の曲だった。これ以上の惜別の辞はないだろう。

 3.クレイジー・クレイジー

エイプリルフールが下火になってきたということから、世界中で見聞してきたバカバカしいくだらない話について。「深夜特急」の旅のときの、小島一慶の番組「パックインミュージック」のコーナー「気狂いクラブ」のエピソードなどを紹介。

 4.わからない

井上陽水からの突然の電話。宮沢賢治雨ニモマケズ」をモチーフにした「迷走する町」の印象的なキーワード「わからない」について。「雨ニモマケズ」の井上陽水の解釈に独自の世界観を強く感じる沢木氏。

 5.ポケットはからっぽ

 デート中の喫茶店。沢木氏の後方で、大きな声でおもしろい話をする丸谷才一。デート相手との会話そっちのけで、丸谷才一の話しか耳に入ってこない。丸谷才一の「男のポケット」というエッセイ集があるが、沢木氏のポケットはいつもからっぽ、と自嘲気味に語る。

 6.風が見えたら

 瀬古利彦を軸にマラソン競技について語る。酒場でたまたま隣り合わせたカメラマンとの話を挿入し、瀬古利彦円谷幸吉の対比、女子マラソンの先覚者 ゴーマン美智子のエピソードなども加わる。

 7.そんなに熱くはないけれど

 テレビに熱狂していた時代について。そして、英元首相サッチャーの記者会見、ギリシャ人女優メリナ・メルクーリのインタビュー番組について語る。

 8.運のつき

 ギャンブルにまつわる話。一流騎手からミステリー作家へ華麗なる転身をしたディック・フランシスについて。以前厩舎に住まわせてもらい世話した馬(イシノヒカル)の馬券の話。そして、山口瞳の編集者と呑んだ勢いで買ってきてもらった馬券が万馬券になり、山口瞳草競馬流浪記」でそんな沢木氏が紹介されていることなど。

 9.シンデレラ・ボーイ

 シンデレラ・ボーイといえば、映画「ロッキー」のシルベスター・スタローン。モハメッド・アリを倒し、映画「ロッキー」をなんと現実に模倣することになったレオン・スピンクス。映画「ロッキー3」の敵役 ミスターKは、そんなレオン・スピンクスのボディーガードだった。

 10.彼の声 彼の顔

 ラジオ番組に出た時の自分の声に違和感を覚えたこと。テレビでの失敗談。寺山修司の元夫人に「コカコーラみたいな人」と言われた話など。

 11.角ずれの音が聞こえる

 北海道の生産牧場でのひととき。高倉健の深い言葉に感銘を受ける。

 12.退屈の効用

 パチンコの話、趣味の話。

 13.寅、寅、寅

 映画「男はつらいよ」と山田洋次を切り口に、映画について語る。「男はつらいよ」や嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」などは、なぜか映画評論家が決めるベストテンなどへ選出されない。思いっきり映画を楽しめない試写会には行きたくないと語る。

 14.ぼくも散歩と古本がすき

 同じ街(経堂)に住んでいた植草甚一の話。そんな植草甚一とよく古本屋で出くわしていたこと、そして実家近くの古本屋「山王書房」にまつわる心温まる話。最後には、植草甚一の処分に困っていた大量の蔵書を譲り受けることに。

 15.トウモロコシ畑からの贈物

 酒の呑み方。そして、バーボンについて。酒の呑み方を最初に模倣したのは父。以後様々な格好いい酒呑みと呑んできた。なぜバーボンを呑むようになったのか。また、アメリカ タンパのスポーツウェア会社に訪れ、オフィスでビール、バーでバーボンを呑む。そこで一緒に呑んでいた人からの言葉「トウモロコシ畑からの贈物だもんな」にはたまらないものを感じる。

 

以上である。

 

作者のあとがきに書かれているが、この作品は、どれも呑み友達と酒を酌み交わしているうちにできたもののようだ。

 

洒落ていて、適度に硬さがある知的な文章。

こんな文章、私も書いてみたい。

そして、こんな呑み友達と酒を酌み交わしたい。

 

ちょっとした話がいろいろな作品と繋がっている。

とてもおもしろい。

 

私は、呑むといったらほとんどビールだったが、これからは「トウモロコシ畑からの贈物」バーボンを呑んでみようと思ったりした。

 

(2020年9月21日読了)

(2020年9月29日記)

 

【文学】沢木耕太郎 「旅の窓」 写真と文章の融合。写真好きな人なら憧れること間違いなしの新しいタイプの写真集。

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何気ない写真とそれに対する背景とその時の思い。

この作品は、沢木氏自身が旅先で撮った写真とそれにまつわる文章が見開き2ページで綴られている。

 

写真と文章の融合。

意外とこのような作品はないような気がする。

 

病院の待合室などにあるとピッタリだと思う。

誰もが楽しめる。

 

購入し、読み始めてから3か月近く。

隙間時間などに、ゆっくりと楽しませてもらった。

 

私は、写真を撮ることも好きだ。

文章を書くことも好きだ。

 

私もこのようなものを作ってみようと思ったりした。

 

 

(2020年9月28日読了)

(2020年9月29日記)

【文学】沢木耕太郎 「旅する力 深夜特急ノート」沢木耕太郎を最もよく知れる作品。旅がもっと好きになる。自分の旅を作り上げよう。

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沢木耕太郎の「深夜特急」は、私にとって特別な作品だ。

そんな「深夜特急」を学生時代に読み、そして今年のゴールデンウイークにおよそ四半世紀ぶりに読み返した。

深夜特急」を初読し、そして私自身もバックパックで旅をしていた若い頃を思い出した。懐かしく、みずみずしい思いが溢れてきた。

 

そして、そんな「深夜特急」の旅の背景を記した「旅する力 深夜特急ノート」については、その存在すら知らないほどだった。

これは、この本が刊行された2008年11月、そして文庫化された2011年5月にはいずれも私自身が海外に在住していたということもあったと思う。

 

今年のゴールデンウイークに久々に「深夜特急」を読み、改めて感動した私は、それを契機に再度沢木耕太郎の本を読み始めた。

そして、6月にこの「旅する力 深夜特急ノート」を読んだ。

 

そして3か月を経て、再び、改めてメモを取りながら読んでみた。

というのも、5月からいろいろな沢木耕太郎の作品を読んできて、どうしてもあらゆる作品が書かれた時期、書いたときの気持ち、状況などを改めて知りたいと思ったからだ。

 

3か月前に読んではいたが、そのときよりも数倍楽しく、そして数倍心に響いた。

 

最近、何かに取り憑かれたかのように本を読んでいる。

その中で感じることが、本と旅の関連性である。

本は、それを読むことにより、異なる様々な世界に入っていける。

旅は、さしずめ、それを物理的に行うことなのだ。身を持って異なる様々な世界に入っていくことができる。

 

そういうこともあり、改めて、旅そして本は私のもっとも好きなこと、ライフワークにしたいことであると、強く感じている。

 

この本は、まず「旅とは何か」というところから入っている。

旅は、始まりがあり終わりがある。だから旅は人生に例えられるのだが、人生と同様に、そこに「旅を作る」という余地が生まれる。

 

「旅は旅をする人が作るもの」

とても印象的な言葉だ。

 

そして、沢木耕太郎自身の生い立ちと旅との関連性についてだ。

小学生の時に、友達が家族で行くという「松坂屋」に一人で行ってみたことから、中学3年の時に一人で大島へ行ったが一泊もせずに逃げかえるように帰ってきてしまったこと。

そして、高校から大学にかけては、国鉄周遊券を利用して、日本中を一人で歩いていたこと。

そんなことが綴られている。

 

そして、大学を卒業後、どのようにして新進気鋭のルポライターとして羽ばたいていったのかが、非常に具体的に記されているのだ。

初期のルポルタージュなどの作品で、ある程度のことは知っていたが、それがより具体的な形で繋がっていく。

これは、沢木ファンにはたまらないぐらいにおもしろい。

 

この作品のハイライトは、何といっても「深夜特急」の旅の、「深夜特急」には書ききれなかった旅のエピソード、裏話だろう。

これは、読者の期待を裏切らない。いや、読者の期待以上のものになっている。

 

そして、「深夜特急」の旅の後、「深夜特急」の旅を作品化するまでに至る過程が、これもこと細かく記されている。

 

深夜特急」の旅は、1974~75年に約1年間かけて行われた。

 

その旅の様子は、TBSラジオの「パックインミュージック」という番組で紹介されていた。

これは、沢木耕太郎がその番組のDJである小島一慶に宛てて度重なる手紙を書き、それを元に小島一慶が番組で紹介していたようだ。

さしずめ、その旅の最中にいわばリアルタイムで紹介されていたのだ。

当時、私はまだ4歳ぐらいなので、そのようなラジオ番組を聴く術も知る余地はないのだが、当時リアルタイムで聴いていた人は、すごい衝撃を受けたことだろう。

 

そして、旅から帰国後、その「パックインミュージック」に出演し、旅の話を5週に渡ってすることになる。

リスナーからの反響により、この旅が自分自身だけでなく他人にとってもおもしろいのかもしれない、という実感を持つようになる。

 

文章としては、創刊して間もない雑誌「月刊PLAYBOY」1977年2月号(1976年12月発売)に「飛行よ!飛行よ! 香港流離彷徨記」という題名で、香港での出来事を中心に発表されている。

 

月刊PLAYBOY」は、沢木氏自身が初めて自分が書きたいと思った雑誌とのことである。

この雑誌は、2009年1月号をもって休刊しており、現在刊行していない。

非常に質の高い雑誌だったと思う。

このような質の高い雑誌が今読めないことはとても残念に感じる。

 

その後、小学館の新雑誌「クエスト」に「絹と酒」という題名で、シルクロードの旅について、ギリシャからイタリアに渡るフェリーの中での書いた手紙をもとにした文章を発表している。

 

そして、旅から10年の時を経て、1984年6月から産経新聞に1年間の予定で新聞小説欄に連載されることになる。

 

新聞小説にノンフィクションの紀行文を連載するというのもなかなかないことだろう。

しかし、沢木耕太郎は、以前にも、ボクサー カシアス内藤を主人公に自分自身との関わりを自分自身の視線で捉えたノンフィクション作品「一瞬の夏」を朝日新聞で連載した経験があった。

 

「1年間の旅を1年間かけて書く」というのもいいだろう、ということで連載を始めることになった。

 

この時、私は中学2年生だった。

私の家では産経新聞は取っていなかったし、当時新聞小説など読んだこともなかったと思う。そのため、残念ながら新聞小説としての「深夜特急」について知る由もなかった。

 

そんな「深夜特急」の連載だが、1年間ではとても終わらず、次の池波正太郎氏の小説が控えているということもあり、結局翌1985年8月までの1年3か月で終了。終着のロンドンまでは辿り着けず、イスファハンまでとなってしまった。

 

そして、香港からイスファハンまでを「第一便」「第二便」の2冊組として、1986年5月に単行本として刊行している。

 

そして、残りのロンドンまでのヨーロッパ編、「第三便」は実にその6年後の1992年10月に刊行されるのである。

 

私が「深夜特急」に出会ったのが、この「第一便」から「第三便」に渡る3冊組の単行本だった。6冊組の文庫化される前だった。

表紙のカッサンドールの絵を使った平野甲賀氏による装丁がかっこよく、とても印象的な本だった。

 

私は、買った本にレシートを挟む癖がある。

残念ながら、「第一便」はなぜか紛失してしまい手元にないので、残念ながら買った日にちを確かめることができない。

しかし、「第二便」「第三便」は大切な蔵書として私の本棚にある。

「第二便」が1993年1月16日、「第三便」が1月19日に購入していることがわかる。

ということで、私が大学3年の冬に購入し読んだことがわかる。

今考えてみると、おそらく、「第三便」が発売されたことにより、「深夜特急」の存在を知ったのだと思う。

そして、当時、この本に魅せられて、熱中して読んだことが思い出される。

 

当時の私は、勉強よりもサークルやアルバイトに精を出す大学生活を送っていた。

そして、夏休みや春休みといった長期休暇の際には、国内外問わず、旅に出ていた。

 

国内では、青春18きっぷを活用し、京都で大学生活を送っていた小中高が一緒だった友人宅に図々しくもおしかけたりしながら、鈍行列車の旅を楽しんでいた。

 

そして、やはり海外への憧れは強く、最初の海外は絶対に船で行きたいと思っていた。

1991年の夏、大学2年の時にサークルの先輩と二人で約4週間に渡り船で中国へ行った。それが私にとって初めての海外だった。

中国語のできない私と先輩は、旅先でいろいろな人の助けを受けることになった。

日本人のバックパッカーも多かったが、現地の人たちともふれあった。

 

今の大学生はどうなのかわからないが、私が大学生の頃は、バックパックの旅というのが結構流行っていて、「地球の歩き方」というガイドブックを片手に海外に旅に出るという若者は多かった。

私も、そんな若者の一員となった。

何より私にとっての最大の発見は、異国で異邦人になることの楽しさを知ったことだった。

こんなに楽しいことはないと思うぐらいの楽しさだった。

 

早く次の旅に出たい。そして、次は絶対一人で旅に出よう。と、必死で何種類ものアルバイトをして、それから半年後の1992年の春、大学2年と3年の間に、ヨーロッパをトータル40日間かけて一人で回ってきた。

航空券だけ購入して、あとは自由だ。街に着いたらまずは宿探し。あとはひたすら街を歩いていた。ある程度の計画は立てていたが、好きな時に好きなように過ごせる。

今思い起こしても、この旅が、私にとって最も旅らしい旅といえるのではないだろうか。

 

その次には、その1年後の1993年の春に、ギリシャブルガリア、トルコの3か国を20日間かけての旅に出ている。

 

ということで、私が「深夜特急」に出会ったのは、まさに私がバックパックの旅にはまりきっていたヨーロッパの旅の後、ギリシャブルガリア、トルコの旅の前ということになる。

 

これで、ますます私の旅心に火をつけることになったのは言うまでもない。

 

しかし、沢木耕太郎の「深夜特急」の旅と私のせいぜい40日程度のバックパックの旅ではレベルが違いすぎる。

そんな「深夜特急」に影響を受けた私は、沢木耕太郎が「深夜特急」の旅をした26歳という年齢を自然と意識するようになっていた。

大学卒業後一般企業に就職した私は、入社数年後に26歳を迎えるが、サラリーマン生活を変えることはしなかった。できなかった・・・。

 

そんな私が26歳になった頃に、「深夜特急」のドラマが放映された。

1996年から98年の間に3回に渡り「劇的紀行 深夜特急」という題名で、沢木耕太郎の役を大沢たかおが演じた。

 

そのような縁で、大沢たかお沢木耕太郎の対談も、この本の巻末に載せられている。

このドラマを、当時リアルタイムで見ているが、改めて見たいと思った。

 

さて、この本「旅する力 深夜特急ノート」は、「深夜特急」の愛読者にはたまらない本であることはいうまでもない。

しかし、それ以上に、沢木耕太郎という人物、通ってきた道、仕事ぶりをもっともよく知ることのできる作品だと思った。

 

深夜特急」の旅を行ううえで影響を受けたり、旅について考える契機になった書物がたくさん言及されている。

これは本好きにとっても、とてもうれしいことである。

 

それらの書物を紹介しておこう。

 

大槻文彦「大言海

トルーマン・カポーティティファニーで朝食を

アン・タイラー「夢見た旅」、「アクシデンタル・ツーリスト」

ジョン・スタインベック「チャーリーとの旅」

小田実「何でも見てやろう」

前川健一「旅行記でめぐる世界」

井上靖アレキサンダーの道」

堀江謙一太平洋ひとりぼっち

フレデリック・ブラウン「シカゴ・ブルース」

ポール・ニザン「アデン アラビア」

檀一雄「風浪の旅」

エリアス・カネッティマラケシュの声」

ビリー・ヘイズ、ウィリアム・ホッファー「ミッドナイト・エクスプレス

竹中労「東南アジアレポート」等

小林秀雄ゴッホの手紙」等

 

などである。

 

この「旅する力 深夜特急ノート」を読んで、私も30年近く前にしたいくつかの旅について、文章にまとめてみようかな、と強く思ったりした。

 

やはり旅はいい。

旅を文章にするということも、旅の一つの形である。

 

文章もある種の芸術だと思う。

沢木耕太郎の文章を読むといつもそう思う。

 

「恐れずに、しかし気をつけて」

 

旅をしようとしている人に対する沢木耕太郎からのメッセージである。

 

私も改めて、私の旅を作り続けていきたい、と強く思ったのだった。

 

(2020年6月20日読了、9月23日再読)

(2020年9月28日記)

 

 

【文学】沢木耕太郎 「王の闇」 「敗れざる者たち」の続編的な作品。「敗れざる者たち」、そして「一瞬の夏」との連動性を十分に楽しめる極上のスポーツノンフィクション。

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夢の雑誌「Number」最新号


5篇のスポーツノンフィクションから成る。

 

この「王の闇」は、それほど知名度は高くないと思うが、前作「敗れざる者たち」に勝るとも劣らない作品だ。

 

今、ここに、「敗れざる者たち」を前作と書いた。

「敗れざる者たち」は1976年に刊行されており、沢木耕太郎のスポーツノンフィクションの代表作といえるだろう。

 

「王の闇」は、「敗れざる者たち」から13年の時を経た1989年に刊行されている。

10年以上の月日は経っているが、収録された5篇のうち、瀬古利彦を題材にした「普通の一日」はかなり後に書かれているが、それ以外は1970年代後半に書かれており、1970年代前半に書かれた「敗れざる者たち」の続編といってよい作品となっている。

 

ボクシングを題材に取ったものが多いこともあり、内容面でも、「敗れざる者たち」、そしてボクサー カシアス内藤を主人公にした「一瞬の夏」と絡み合っている。

沢木ファン、ボクシングファンにはたまらない内容となっており、私も大変興味深く、そしてとても楽しく読んだ。

 

また、テーマも「敗れざる者たち」同様、かつて栄光を掴んだ者の下り坂、もしくは輝ききれなかった影の部分について書かれている。

 

5篇の概要は以下の通り。

( )内は競技名と扱われた人物名。

 1.ジム(ボクシング、大場政夫)

 2.普通の一日(陸上 マラソン瀬古利彦

 3.コホーネス〈肝っ玉〉(ボクシング、輪島功一

 4.ガリヴァー漂流(相撲・野球・ボクシング・プロレスなど、前溝隆男)

 5.王であれ、道化であれ(ボクシング、ジョー・フレイジャー

 

内訳は、ボクシング3篇、陸上1篇、そしてその他1篇となっている。

「敗れざる者たち」が、ボクシング2篇、野球2篇、陸上1篇、競馬1篇となっているので、いかにボクシングの比重が高いかがわかる。

 

ボクシングの3篇は「PLAYBOY」に、その他の2篇は「Number」で掲載されたものだ。いずれも非常に質の高い雑誌である。

 

「ジム」は、世界チャンピオンのまま自動車事故で夭逝したボクサー 大場政夫についての話である。育ての親でありマネージャー 長野ハルの一人称で書かれていることが印象的だ。そして長野ハルと対比させるような形で、大場政夫の父親の視点が最後に描かれている。

 

この長野ハルは、「一瞬の夏」にも出てくる。

沢木が、カシアス内藤のプロモーターをやろうとしているときに相談に行った相手だ。

また、沢木の長編小説「春に散る」の中にも、長野ハルをモデルにしたであろう女性マネージャーが出てくるのだ。

この辺りは、読んでいて非常におもしろく感じるところだ。

 

「普通の一日」は、陸上 マラソン競技の瀬古利彦についての話だ。

最初、私は、瀬古と彼の師匠だった中村清について書かれたものかと思ったが、実際には、瀬古が引退し、エスビー食品陸上部の監督になったばかりの時代のものだった。

この作品だけが、他の文章と作成時期が異なっているため、そのような錯覚に陥ったのだろう。

 

沢木耕太郎にとって、瀬古利彦ほど取材対象としてふさわしい人はいないかもしれない。

その風貌、境遇からして、どうしても、「敗れざる者たち」で取り上げた円谷幸吉と重なるからだ。

しかし、瀬古と円谷は違った。

異なる要素はいくつかあるが、その最大のものは結婚だろう。瀬古は、いい時期に結婚できた。奥さんの存在に瀬古は救われることになる。

そして、この文章が書かれた当時の人が、今の瀬古利彦を見れば、さらに驚くことになるだろう。マラソングランドチャンピオンシップを成功させるなど、日本陸連や解説者として、大活躍している姿を想像した人がいただろうか。

ここでも、瀬古利彦を題材にしたことで、円谷幸吉を題材にした「敗れざる者たち」との関連性を感じることになる。

 

「コホーネス〈肝っ玉〉」は、「敗れざる者たち」の「ドランカー〈酔いどれ〉」の続編ともいえる作品だ。

 

「ドランカー〈酔いどれ〉」の文章ほど感動したものはない。

この輪島功一が柳済斗と闘った1976年2月17日に日大講堂で行われた試合。

この沢木耕太郎のボクシング観戦記には震え上がらせられた。

 

「コホーネス〈肝っ玉〉」は、この柳済斗戦の後の輪島功一について描かれている。

二度とあのような震え上がる試合はできなかったが、最後の最後に、輪島功一の生き様を理解することになる。

 

ガリヴァー漂流」は異色の作品に見えるかもしれない。

前溝隆男という日本人の父とトンガ人の母から血を引いている人物の生涯について述べられている。

前溝隆男は異色の経歴の持ち主だ。

相撲取りとしてキャリアを始め、プロ野球、ボクシング、プロレスといった世界に関わることになる無名に近い存在にスポットライトを当てた。

 

これは、雑誌「Number」の創刊を記念して、書いたものとのことだ。

アメリカの「スポーツ・イラストレイティッド」との提携誌ということで、夢の雑誌の誕生を祝ったようだ。

1980年のこの雑誌の誕生を、沢木耕太郎が喜んだことは容易に理解できる。

 

私がこの雑誌を知ったのは、高校の文化祭での古本市でだった。

何冊か出ており、こんな雑誌があるのか、と感嘆したことを覚えている。1987、88年頃のことだ。

この雑誌は今でもあるが、本当に素晴らしいと思う。

何より写真がいい。これほど写真にフォーカスしている雑誌はなかなかないと思う。

そして、そんな写真に負けない、ふさわしい硬派な文章がとてもいいのである。

 

そして、最後の「王であれ、道化であれ」だ。

この作品が、この「王の闇」のハイライトと言えるだろう。

 

舞台は、アメリニューオーリンズ

時は、1978年9月15日。

そうなのだ。これは、レオン・スピンクスとモハメッド・アリとの闘い、いわゆる「ザ・バトル・オブ・ニューオーリンズ」が行われた場所であり、ときである。

 

しかし、この文章の主役は、スピンクスでもアリでもない。

ジョー・フレイジャーなのだ。

 

モハメッド・アリ、レオン・スピンクス、そしてジョー・フレイジャーは、その当時のボクシングヘビー級の王者たちである。

 

その3年前、「スリラー・イン・マニラ」と呼ばれた、モハメッド・アリとジョー・フレイジャーとの素晴らしい闘いをこの眼で観た沢木耕太郎

この「ザ・バトル・オブ・ニューオーリンズ」の前夜にジョー・フレイジャーが歌手としてショーを行うとの情報を得る。

 

3年前、負けはしたが見事な闘いを演じたジョー・フレイジャー

その戦後を確かめたい沢木耕太郎は、ジョー・フレイジャーのマネージャーに事前にインタビューの承諾を得る。

 

しかし、そのショーが行われるというライブハウスは、驚くほどにうらさびれたものだった。

 

予想もしなかったほどに辺鄙な場所にあったライブハウス。

日時を指定され、行ったものの、マネージャーはインタビューのことをジョー本人には伝えていなかった。

 

控室にいたジョー・フレイジャーは、これがあのジョーか、と思うほどに変わり果てていた。

 

そんなジョーが発した最初の言葉は、”How much you pay?”というものだった。

ジョーの口から出てきたものは「金」だったのだ。

これには沢木耕太郎も幻滅することになる。

そしてその流れから金額交渉することとなるが、もうインタビューは必要ないと思い決めてしまう。

 

結局、インタビューを断念し、ステージだけ見て帰ることにする。

しかし、そのステージというのは、しらけたものであり、わびしいものだった。

 

ジョー・フレイジャーとモハメッド・アリの2つの試合(ジョーが勝った1971年NYマジソン・スクエア・ガーデンの試合と、ジョーは敗れたが見事な闘いを魅せた1975年のスリラー・イン・マニラの試合)と、今眼の前にあるジョーのステージが錯綜する。

 

ジョーが輝いていたとき、そして、今眼の前にいるジョー。

 

沢木の心を震え上がらせたジョー。

よく闘ったものがよく戦後を生きられる。そうであるはずだと思っていたが・・・。

 

「一瞬の夏」の中にも、この「ザ・バトル・オブ・ニューオーリンズ」を観に行く場面は出てくる。

ちょうどカシアス内藤と再会した直後のことであり、ある種の印象的な位置づけになっている。

しかし、このうらさびれたライブハウスでのジョー・フレイジャーとのやり取りは、ほんの2,3行で済まされている。

 

この2つの作品での連動性。

十分に楽しませてもらった。

 

沢木耕太郎の文章の、新たな楽しみ方を知ることができたのだった。

 

(2020年9月16日読了)

(2020年9月18日記)

【文学】沢木耕太郎 「地の漂流者たち」 デビュー作を含むルポルタージュ集。沢木耕太郎の原点を知るための必読書。

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作者の最初の作品「防人のブルース」を含む6篇のルポルタージュ集。

沢木耕太郎の原点を知るためには必読の書だと思った。

今まで読んでなかったのが不思議に思うぐらい。初読。読めてよかった。

 

作品としては、「人の砂漠」に似ている。

 

構成されている6編のルポルタージュは以下の通り。

( )内は、作成時期。

 1.防人のブルース(1970年10月)

 作者初の作品。自衛隊員へゲリラ的にインタビューを行い、自衛隊員の意識、自衛隊の在り方などを調査する。

 2.この寂しき求道者の群れ(1971年9月)

 アングラ演劇について。新劇と比較しながら、その在り方を洞察している。

 3.性の戦士(1971年9月)

 ピンク映画についての考察。

 4.いま、歌はあるか(1971年10月)

 歌謡界、歌謡曲を取り巻く状況について。

 5.単独復帰者の悲哀(1971年11月)

 沖縄からの留学生(大学生)について。その実態について。返還前の沖縄は、日本にとって外国。だから留学生ということになるのだろう。

 6.灰色砂漠の漂流者たち(1972年3月)

 川崎という町を舞台にした、若年労働者の実態、葛藤について。

 

特に印象に残ったのは、やはり最初の作品である「防人のブルース」だ。

当初、自衛隊本部へ取材を申し込むが、わけのわからない理由で許可されず、自らの力で、人海戦術で取材を実行する。

最初の作品から、このような捨て身と言ったら失礼かもしれないが、なりふり構わずに取材を敢行する様子などは、並大抵のものではないことが感じられる。

インタビューの人数は相当なるもの。

そして、自らの責任を持って、批判するところはきちんと批判し、自らの分析結果を述べる。まさにジャーナリストだ。

デビュー作からして、骨のあるところがみられる。1970年の作品ということで、大学を卒業した年のものであることがわかる。

「一瞬の夏」で度々出てくるボクサー カシアス内藤を取り続けたカメラマン内藤利朗もこの取材に同行していたとのことである。

 

また、最も興味深く読んだのは、最後の「灰色砂漠の漂流者たち」だ。

まず、川崎という町の特殊性が述べられている。

確かに当時の川崎は、工業地帯のど真ん中で、工員で溢れているうらさびれた町といった様相が強かったのだろう。

そんな川崎という町を舞台にし、中高卒を中心とした若年労働者の実態、そして彼らの葛藤を描いている。

これは、50年経った現代の、大卒者をも含む労働者状況にも通ずるものを感じた。

 

さて、沢木耕太郎の原点となる本作品で、社会派ジャーナリストの様相を強めながらキャリアをスタートしたことがわかった。

 

大卒して1,2年の頃だが、このようなルポを書くことは危険も伴うだろう。

どんな階層にも偏見を持たずに飛び込む行動力には脱帽する。

 

(2020年9月13日読了)

(2020年9月15日記)

 

【文学】沢木耕太郎 「敗れざる者たち」これぞ沢木耕太郎の真骨頂。最後のボクシング観戦記には熱狂させられた。

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6篇のスポーツノンフィクションから成る。

作者20代、50年近く前の作品。1976年に発表されている。

結果が決まっているノンフィクションだったが、小説を読むように熱くなってページをめくっていった。

 

6篇の概要は以下の通り。

( )内は競技名と扱われた人物名(もしくは馬名)。

 1.クレイになれなかった男(ボクシング、カシアス内藤

 2.三人の三塁手(野球、長島茂雄・難波昭二郎・土屋正孝)

 3.長距離ランナーの遺書(陸上 マラソン円谷幸吉

 4.イシノヒカル、おまえは走った!(競馬、イシノヒカル

 5.さらば、宝石(野球、榎本喜八

 6.ドランカー〈酔いどれ〉(ボクシング、輪島功一

 

内訳は、ボクシング2篇、野球2篇、陸上1篇、競馬1篇となっている。

どれも重厚で、非常に深く、えぐり出されるように書かれている。

題名「敗れざる者たち」からもわかるように、敗者、もしくは勝者においても輝ききれなかった影の部分について書かれている。

 

この6篇の中で、一番衝撃的なものは、やはり陸上 マラソン競技の円谷幸吉について述べられた「長距離ランナーの遺書」だと思う。

その生真面目な風貌や走り方から、古き良き日本人の悲劇の典型として伝説的な存在と言っても過言ではないだろう。

 

円谷幸吉ほど、悲劇という名にふさわしい人はいないのかもしれない。

悲劇、栄光者の転落、陰影ということでの非常にシンボリック的な存在だ。

 

1964年の東京オリンピックで銅メダルを獲得。これは完全に栄光だろう。

しかし、次のメキシコ五輪を半年後に控えた1968年の年明け早々に自殺という形で競技生活を終えると同時に生涯も閉じてしまうこととなる。

 

沢木耕太郎が好む、というよりは扱うにふさわしい題材に思える。

円谷幸吉という人物を、その生涯を、特に東京五輪から自殺に至るまでの3年半の間に何があったのか、ということを中心に、鋭い筆致で描かれている。

 

野球については2篇ある。

長年、日本のスポーツといえば、プロ野球だった。

作者が中学まで野球少年だったということも、野球を題材にすることは自然に感じる。

 

「三人の三塁手」は、栄光の光(長島茂雄)と影(難波昭二郎・土屋正孝)が対比され、非常にわかりやすい形で描かれている。

 

「さらば、宝石」は榎本喜八について書かれた文章だ。

しかしこれも、人気と実力、陰と陽ということで長島茂雄と比較されながら描かれているということから、ある意味「三人の三塁手」と同じテーマと言えるのかもしれない。

 

そういった中で少し異色に感じられるのが、「イシノヒカル、おまえは走った!」だ。

競馬というものが、人ではなく馬が主役のスポーツであるということもさることながら、作者自身が、この文章を書くために、取材をするために、厩舎に寝泊まりしているのだ。

これは、のちに刊行されることになる「人の砂漠」の中の「棄てられた女たちのユートピア」などでも敢行される手法であるが、沢木耕太郎の徹底的な性格、そして誠意が感じられる行為だと思う。

 

そして、この本のハイライトは、ボクシング2篇だ。

 

ボクシングは、沢木耕太郎にとって、もっとも深く関わるスポーツである。

ボクシングを題材とした作品として、「一瞬の夏」「王の闇」などのノンフィクションだけではなく、小説としても「春に散る」を書いている。

 

まずは、1篇目の「クレイになれなかった男」だ。

「クレイになれなかった男」とは、ボクサー カシアス内藤のことである。

これは、カシアス内藤の話である。

 

カシアス内藤は、アメリカ人の黒人の父、日本人の母を持つ混血だ。

高校時代にボクシングを始め、めきめきと力をつけ、プロになる。

名トレーナーとして有名なエディ・タウンゼントに指導を受け、日本チャンピオン、東洋チャンピオンにまでなる。

しかし、東洋タイトルの防衛戦で韓国人ボクサーに敗れて以来、ほとんど話題にも上らなくなってしまう。

 

沢木耕太郎にとって、カシアス内藤は不思議なボクサーだった。

そして、気になるボクサーだった。

追いつめながら、あと一発でKOシーンだというのに、フッと打つのを止めてしまう。

常に中途半端なボクシングしかしてこなかった。

 

しかし、沢木耕太郎は、そんなカシアス内藤に親近感を持っていた。

彼もまた自分と同じように迷っている。自分の宿命とどう折り合いをつけていいのか戸惑っている・・・。

 

話題にも上らなくなったカシアス内藤がまだボクシングをやめていないということを知った沢木耕太郎は、カシアス内藤に会ってみたいと思う。

 

そして、沢木耕太郎は、カシアス内藤と会う。

そして、その2週間後に、因縁の相手 韓国人ボクサー 柳済斗と韓国で対戦するという。

「やりますよ、今度は!」

その言葉を聞いて、沢木耕太郎は、韓国へカシアス内藤の試合を観に行くことを決意する。

 

しかし、試合は、何もないまま終わってしまう。

熱い何かを感じさせるものは一切なく終わってしまうのだ。

 

今までと変わらなかった。

カシアス内藤は、やってくれなかったのだ。

 

最後に、沢木はこう書き記している。

「いつか、そういう試合ができるとき、いつか……」

「しかし、“いつか”はやってこない。内藤にも、この俺にも……」

 

沢木は、絶望したのだ。

 

しかし、これには、後日談がある。

あの超大作、1981年に刊行された「一瞬の夏」が、その後日談である。

沢木は、この「クレイになれなかった男」と非常に強い友情で結ばれることになる。

 

そして、最後の1篇「ドランカー〈酔いどれ〉」は、ボクサー 輪島功一の話である。

 

ここでも、1篇目の「クレイになれなかった男」といくつもの繋がりがある。

輪島の相手は、「クレイになれなかった男」カシアス内藤の相手でもあった韓国人ボクサー 柳済斗なのだ。

そして、沢木耕太郎は、その試合をカシアス内藤と観たいと望み、カシアス内藤のためのチケットまで買うのだが、結局彼は来なかった・・・。

 

沢木の頭の中では、カシアス内藤、柳済斗、輪島功一の3人が複雑に絡み合う。

 

輪島は、「書きたい」という沢木を受け入れ、とことんまで接してくれる。

 

クライマックスの輪島功一と柳済斗との試合は、これ以上ないボクシング観戦記となっている。

みる者としてのボルテージの上がりぶりを、かくという行為のする者として文章で表現している。

 

どれだけ熱狂したか!興奮したか!

これほど、熱くみずみずしい文章を体感したことはない。

 

これだけは、敗れざらなかったのだ。

 

観衆は、沢木は、そして私は、魅き込まれ、熱狂した!

 

輪島功一は、試合に勝つことだけでなく、みる者を魅き込ませる熱い何かをもたらしてくれたのだ。

 

この本のハイライトは間違いなく、この試合だ。

 

カシアス内藤になくて、輪島功一にあったもの。

「クレイになれなかった男」のカシアス内藤の試合では得られなかったものを、「ドランカー〈酔いどれ〉」の輪島功一の試合では得られたのだ。

 

こんな熱い試合を観たい。体感したい。

そして、このような熱くみずみずしい文章を書いてみたい、と強く思うのだった。

 

(2020年9月7日読了)

(2020年9月15日記)