【文学】沢木耕太郎 「敗れざる者たち」これぞ沢木耕太郎の真骨頂。最後のボクシング観戦記には熱狂させられた。
6篇のスポーツノンフィクションから成る。
作者20代、50年近く前の作品。1976年に発表されている。
結果が決まっているノンフィクションだったが、小説を読むように熱くなってページをめくっていった。
6篇の概要は以下の通り。
( )内は競技名と扱われた人物名(もしくは馬名)。
1.クレイになれなかった男(ボクシング、カシアス内藤)
5.さらば、宝石(野球、榎本喜八)
6.ドランカー〈酔いどれ〉(ボクシング、輪島功一)
内訳は、ボクシング2篇、野球2篇、陸上1篇、競馬1篇となっている。
どれも重厚で、非常に深く、えぐり出されるように書かれている。
題名「敗れざる者たち」からもわかるように、敗者、もしくは勝者においても輝ききれなかった影の部分について書かれている。
この6篇の中で、一番衝撃的なものは、やはり陸上 マラソン競技の円谷幸吉について述べられた「長距離ランナーの遺書」だと思う。
その生真面目な風貌や走り方から、古き良き日本人の悲劇の典型として伝説的な存在と言っても過言ではないだろう。
円谷幸吉ほど、悲劇という名にふさわしい人はいないのかもしれない。
悲劇、栄光者の転落、陰影ということでの非常にシンボリック的な存在だ。
1964年の東京オリンピックで銅メダルを獲得。これは完全に栄光だろう。
しかし、次のメキシコ五輪を半年後に控えた1968年の年明け早々に自殺という形で競技生活を終えると同時に生涯も閉じてしまうこととなる。
沢木耕太郎が好む、というよりは扱うにふさわしい題材に思える。
円谷幸吉という人物を、その生涯を、特に東京五輪から自殺に至るまでの3年半の間に何があったのか、ということを中心に、鋭い筆致で描かれている。
野球については2篇ある。
長年、日本のスポーツといえば、プロ野球だった。
作者が中学まで野球少年だったということも、野球を題材にすることは自然に感じる。
「三人の三塁手」は、栄光の光(長島茂雄)と影(難波昭二郎・土屋正孝)が対比され、非常にわかりやすい形で描かれている。
「さらば、宝石」は榎本喜八について書かれた文章だ。
しかしこれも、人気と実力、陰と陽ということで長島茂雄と比較されながら描かれているということから、ある意味「三人の三塁手」と同じテーマと言えるのかもしれない。
そういった中で少し異色に感じられるのが、「イシノヒカル、おまえは走った!」だ。
競馬というものが、人ではなく馬が主役のスポーツであるということもさることながら、作者自身が、この文章を書くために、取材をするために、厩舎に寝泊まりしているのだ。
これは、のちに刊行されることになる「人の砂漠」の中の「棄てられた女たちのユートピア」などでも敢行される手法であるが、沢木耕太郎の徹底的な性格、そして誠意が感じられる行為だと思う。
そして、この本のハイライトは、ボクシング2篇だ。
ボクシングは、沢木耕太郎にとって、もっとも深く関わるスポーツである。
ボクシングを題材とした作品として、「一瞬の夏」「王の闇」などのノンフィクションだけではなく、小説としても「春に散る」を書いている。
まずは、1篇目の「クレイになれなかった男」だ。
「クレイになれなかった男」とは、ボクサー カシアス内藤のことである。
これは、カシアス内藤の話である。
カシアス内藤は、アメリカ人の黒人の父、日本人の母を持つ混血だ。
高校時代にボクシングを始め、めきめきと力をつけ、プロになる。
名トレーナーとして有名なエディ・タウンゼントに指導を受け、日本チャンピオン、東洋チャンピオンにまでなる。
しかし、東洋タイトルの防衛戦で韓国人ボクサーに敗れて以来、ほとんど話題にも上らなくなってしまう。
そして、気になるボクサーだった。
追いつめながら、あと一発でKOシーンだというのに、フッと打つのを止めてしまう。
常に中途半端なボクシングしかしてこなかった。
しかし、沢木耕太郎は、そんなカシアス内藤に親近感を持っていた。
彼もまた自分と同じように迷っている。自分の宿命とどう折り合いをつけていいのか戸惑っている・・・。
話題にも上らなくなったカシアス内藤がまだボクシングをやめていないということを知った沢木耕太郎は、カシアス内藤に会ってみたいと思う。
そして、その2週間後に、因縁の相手 韓国人ボクサー 柳済斗と韓国で対戦するという。
「やりますよ、今度は!」
その言葉を聞いて、沢木耕太郎は、韓国へカシアス内藤の試合を観に行くことを決意する。
しかし、試合は、何もないまま終わってしまう。
熱い何かを感じさせるものは一切なく終わってしまうのだ。
今までと変わらなかった。
カシアス内藤は、やってくれなかったのだ。
最後に、沢木はこう書き記している。
「いつか、そういう試合ができるとき、いつか……」
「しかし、“いつか”はやってこない。内藤にも、この俺にも……」
沢木は、絶望したのだ。
しかし、これには、後日談がある。
あの超大作、1981年に刊行された「一瞬の夏」が、その後日談である。
沢木は、この「クレイになれなかった男」と非常に強い友情で結ばれることになる。
そして、最後の1篇「ドランカー〈酔いどれ〉」は、ボクサー 輪島功一の話である。
ここでも、1篇目の「クレイになれなかった男」といくつもの繋がりがある。
輪島の相手は、「クレイになれなかった男」カシアス内藤の相手でもあった韓国人ボクサー 柳済斗なのだ。
そして、沢木耕太郎は、その試合をカシアス内藤と観たいと望み、カシアス内藤のためのチケットまで買うのだが、結局彼は来なかった・・・。
沢木の頭の中では、カシアス内藤、柳済斗、輪島功一の3人が複雑に絡み合う。
輪島は、「書きたい」という沢木を受け入れ、とことんまで接してくれる。
クライマックスの輪島功一と柳済斗との試合は、これ以上ないボクシング観戦記となっている。
みる者としてのボルテージの上がりぶりを、かくという行為のする者として文章で表現している。
どれだけ熱狂したか!興奮したか!
これほど、熱くみずみずしい文章を体感したことはない。
これだけは、敗れざらなかったのだ。
観衆は、沢木は、そして私は、魅き込まれ、熱狂した!
輪島功一は、試合に勝つことだけでなく、みる者を魅き込ませる熱い何かをもたらしてくれたのだ。
この本のハイライトは間違いなく、この試合だ。
「クレイになれなかった男」のカシアス内藤の試合では得られなかったものを、「ドランカー〈酔いどれ〉」の輪島功一の試合では得られたのだ。
こんな熱い試合を観たい。体感したい。
そして、このような熱くみずみずしい文章を書いてみたい、と強く思うのだった。
(2020年9月7日読了)
(2020年9月15日記)