【文学】沢木耕太郎 「イルカと墜落」さすが沢木さんは持っている。珍道中の連続は、まさに「事実は小説より奇なり」。
「一号線を北上せよ」に続き、本棚から取り出して再読した。
この作品は、2002年3月に発売されている。発売直後に購入していたので18年ぶりの再読となる。
私は最初に読んだときから数年後に、仕事の関係でブラジルに滞在していたが、この本の存在を忘れていたのだろうかと、本当に不思議に思う。
この本に登場している舞台とはほとんど皆無に過ごしてしまったことを、本当にもったいなく思ってしまった。
この作品は、「イルカ記」と「墜落記」とから成っている。
それぞれが2回に渡るブラジルへの旅行記で、NHKの番組づくりのために訪問、取材・撮影中に起こったことが描かれている。
取材旅行は2回に渡っているが目的は同じ。NHKの番組づくりのため、沢木耕太郎はNHKのスタッフらと共に、ブラジル アマゾンの奥地に生息する、いまだに文明と接触していない原住民を守る活動をしているブラジル人の活動家への取材、活動への同行を敢行したのだ。
「イルカ記」は、ブラジル人活動家との密度の濃い取材、そしてそんな彼が住むアマゾンの奥地までへの行程記だ。
アマゾンの奥地まで行くことは、想像を絶するほど遠く、過酷な旅が求められる。
彼らの行程は、以下の通りである。
日本からロサンゼルスまで行き、そこで1泊してからアトランタを経由してサンパウロに入る。
ブラジルに着いてからも大変な道のりが待っている。
サンパウロからアマゾンの中心都市マナウスを経由して、空路でタパチンガという町に入る。タパチンガはアマゾン河の上流にあり、ほとんどペルー、コロンビアと接しているブラジルでも最果ての地である。
さらに、そこから小さな船をチャーターし、アマゾン河に繋がっているイトゥイ河をさかのぼり、ようやくジャバリという渓谷にある、原住民を守る活動をしているブラジル人活動家の基地に到着する。
この最後の行程の船旅は1泊2日に渡るものだが、就寝するためのベッドは甲板に吊り下げたハンモックというまさに冒険家のようなものだった。
その船旅の最中に、一行はピンク色のイルカに遭遇する。
それがこの旅行記を「イルカ記」と名付けられたゆえんである。
私も一度だけ、ピンク色のイルカを見たことがある。
私は一度だけアマゾンに行ったことがある。
といっても、沢木氏一行のようにアマゾンの奥地ではなく、アマゾンの中心都市マナウス近くの場所へだった。
マナウスから数キロほどだったと思うが、アマゾン河上のボートの上からピンクイルカを見た。とても鮮やかなピンク色だったことを覚えている。
沢木氏一行は、やっとのことで到着した基地で、ブラジル人活動家への2日間の取材・撮影を行う。
彼らは、ブラジル人活動家に随分と気に入られ、時期をずらして再訪することを約束する。
再訪時には、原住民との接触活動に参加させてもらうことを約束して。
そして、話は「墜落記」へ続くことになる。
ブラジル人活動家との約束を果たすために、沢木氏一行は再びブラジルの奥地を目指す。
「墜落記」は衝撃だ。
実際に、沢木耕太郎の乗った飛行機が墜落してしまうのだからこれ以上の衝撃はないだろう。
この旅は最初から大事件に巻き込まれる。
出発は、2001年9月11日だったのだ。何とあの世界を驚愕させたニューヨークの同時多発テロが起きた日だ。
沢木耕太郎は、日本時間の9月11日夜に成田からカナダ航空でバンクーバーへ向かう。
現地時間で9月11日正午ごろにバンクーバーに着陸したはいいが、機内で足止めを食らってしまう。
その日朝にニューヨークで同時多発テロが発生し、カナダを含むアメリカ全土の空港が閉鎖されたのだ。
これを読んで、沢木さんは持ってるなぁ、と思ってしまった。
何も出発当日にテロに遭わなくてもいいものを。
実際に沢木氏は、この思いがけないバンクーバー滞在を楽しんでもいたのだから。
沢木耕太郎らしいなぁ、と思わざるを得ないエピソードだ。
そしてバンクーバー滞在2日後にラッキーにもトロントに移動することができる。
トロントでもごった返した空港で、空席待ちの列に並んだ末、2日目にサンパウロ行きの飛行機に乗れることとなり、ようやくブラジルの玄関口サンパウロに到着することが出来たのだった。実に日本を出てから6日かかっている。
まさに珍道中の始まりだった。
サンパウロでの宿は、ブルーツリーホテルとのことだ。
こういう知っている場所が出てきたりすると、とてもうれしくなるし、懐かしさを覚える。
この本にも書かれているが、ブルーツリーとはその名の通り、青木さんという日系ブラジル人がオーナーの、有名な現地では知らない人はいない高級ホテルだ。青木さんは現地日系ブラジル人商工会の役員も務めており、サンパウロの日系ブラジル人としてはもっとも成功した人の一人だと思う。
そして、サンパウロから首都ブラジリアで1泊し、ポルト・ヴェーリョを経由して、今回の旅のベースとなるリオ・ブランコへ。リオ・ブランコはボリビア、ペルーとの国境にほど近いブラジルの奥地の町である。
ここで、前回の「イルカ記」の旅で温厚を深めたブラジル人活動家と再会を果たす。
そして運命の日を迎える。
沢木氏一行は、ここリオ・ブランコから、原住民への接触を試みる前線基地であるサンタ・ローザへ2班に分かれてセスナ機で向かうことになった。
そんな沢木氏は、ブラジル人活動家やスタッフと共に2便でサンタ・ローザに向かった。
そのセスナ機が墜落したのだ。
墜落に向かう様子は克明に記述されている。
沢木氏は冷静だ。
墜落に向かい、荷物を軽くするため最後部に座っていた沢木氏は、パイロットから、ありとあらゆる荷物を落下させるよう言い渡される。
そこの記述は秀逸だ。
感じの悪いパイロットのカバンから捨てたというくだりには、不謹慎にも思わずニヤついてしまった。
プロペラ機のプロペラが止まってしまい、出発地へ引き返すもあと少しのところで間に合わず、農家の集落近くに墜落してしまう。
最後部に乗っていた沢木氏は、背中から腰のあたりを強く強打するも、最後に何とか機内から引っ張り出してもらい、一命をとりとめる。
機体は真っ二つに折れたのに、乗員の全員が無事であったことは奇跡だと、現地のニュースでも報道されたとのことだ。
この墜落で取材は中止。結局、今回も原住民との接触活動には同行出来なくなってしまった。
しかし、軽傷のブラジル人活動家は、原住民との接触活動に向かう。沢木氏はそこで、次の機会での再訪を約束する。
マナウスでは、夕やみにライトアップされたアマゾナス劇場の美しさが描写されている。
私もかつてマナウスに行ったときに、アマゾナス劇場の美しく巨大な姿を目にしている。
異様なほどに豪華であり美しい。
そのときは外観を見ただけだったが、ぜひこんな美しい劇場で、素晴らしいショーを観たいと今となっては強く思う。
そして、九死に一生を得た沢木氏は、その数か月後に、「一号線を北上せよ」のヴェトナムへの旅を敢行することになる。
背中と腰の痛みが残っている中で、「深夜特急」ばりのバスの旅を異国で行おうとしているのである。普通の人からすれば、理解できないであろう。
しかし、それが、沢木耕太郎が沢木耕太郎であるゆえんであるのかもしれない。まさに私にとっては、超人としか言えないと思う。
さて、そんな沢木耕太郎の2回に渡るブラジルへの旅は終わるのだが、ブラジルの地で、沢木氏が言及しているいくつかのことに触れておきたい。
3つある。
一つは、サンパウロにできたという私設図書館「沢木耕太郎文庫」である。
これは、この本の冒頭にある「発端」という章に書かれている。
知人の日本人女性がサンパウロでペンション兼図書館を開設するとのことで、沢木氏所蔵の5,6千冊の本を寄贈したとのこと。その後、諸々のトラブル等があり、サンパウロ郊外の日系ブラジル人に引き取られる可能性もあるとのことだ。
この「沢木耕太郎文庫」が現在どうなっているかわからないが、私はこの本が書かれた数年後から7年間もブラジルに住んでいたのだ。サンパウロにも2年半住んでいた。
なぜその時に、仮になくなっていたのかもしれないが、「沢木耕太郎文庫」の存在を調べようとしなかったのか、残念でならない。
2つ目は、MORIさんの描くマッチ箱だ。
沢木氏は、2回のブラジル旅行中、サンパウロ滞在時2度ともに、パウリスタ大通り近くの骨董市を訪れ、日系人女性MORIさんの書くマッチ箱に注目し購入している。
この骨董市には、私もサンパウロ在住時に何度か訪れており、買い物などもしていた。
MORIさんの絵は、この本の表紙にも使われている。
私は、そんなサンパウロに住んでいながら、なぜMORIさんのマッチ箱に触れることができなかったのだろうか?なぜそのように試みようとしなかったのか。
本当に不思議で、そして、本当に残念でならない。
そして、最後3つ目は、沢木氏墜落の地であるリオ・ブランコである。
私は、旅が趣味みたいなもので、ブラジル滞在中の7年間で主要な都市は、クリチバ以外ほとんど訪れた、と思っていた。
しかし、リオ・ブランコには行っていない。
ブラジル滞在中にこの本の存在を覚えていたら、絶対に行っていただろう。
リオ・ブランコに行き、レストラン「アネクソ」の「チキンスープ・ライスいり」をぜひ食べたかった。
ということで、私にとって第2の故郷ともいえる大好きな国、ブラジルが舞台のこの作品。大好きな場所での珍道中の連続。これ以上ない興奮の連続で読んだことは言うまでもない。
沢木節炸裂で、素晴らしい作品であることは間違いない。
(2020年8月16日読了)
(2020年9月3日記)